親父は製材所や木造建築の請負をしていましたので、当然、物心つく頃には私も毎日手伝いをさせられました。朝から晩まで本当にこまねずみのように働いていました。
私には5つ違いの兄がおります。兄も親父の仕事を手伝っていましたので、兄が後を継ぐのが当然と思っていましたが、親父と兄の仲があまり良くない(笑)親父は本当にかたい職人かたぎ、兄は勉強が出来る天才肌。方向性の違いが露わになり、私が小学校2年の頃には「鎌形製材所の跡継ぎは四郎だ!」と決められてしまったんです。
将来の道だけでなく、高校進学の際には「地元の高校へ行け」と言われ、進路もきめられてしまいました。親父によって狭い多古から出られないという寂しさがありました。しかし地元にずっと永くいるもんだから、色々なご縁、深いご縁を頂けました。
高校を卒業してから、私自身は営業を積極的にやり始めました。でもそんな簡単に仕事が頂ける訳じゃない。小さな仕事だったり、親父の信用で話のあった仕事を私が御用聞きに向かうという日々でした。昭和42年の私が25歳になった時、多古町から鉄筋コンクリート2階建公民館の入札業者として指名して頂けたんです。木造以外の仕事は施工した事がありませんでしたので、こんな大きな仕事のお話が、私の所に来た嬉しさで頑張って落札をしたんです。
しかし施工は分からない事だらけで・・・唯一の救いは兄が大手ゼネコンに在籍していましたので、相談にのってもらい、また、休日は現場を見てもらい、何とか現場を完成させました。
しかし素人会社が鉄筋コンクリート造を初めて施工する訳ですから、当然赤字になりました。それが発端で『鎌形は倒産するぞ』と周囲の噂になりました。
親父が積み上げてきた信用や実績を、私一人で全て壊してしまったようで、本当に苦しかった。そんな苦しい状況を見るにみかねて、家の新築を依頼してくれる人がいたんです。当時の金額で1千万円の豪邸でした。しかもその方は契約直後に「鎌形、これ持っていけや・・・」とポンっと5百万円払ってくれたんです。帰り道は涙で歩けませんでした。家に帰ると親父が「良かったな」って言ってくれて・・・初めて親父に認められた気がしました。